北条政子が建てた浄業寺

2020年 07月 03日

浄業寺

北条政子が頼朝の3回忌に合わせて建てた寺、浄業寺は、能満寺から1キロくらい大山に向かったところにありました。

本尊は釈迦如来。鎌倉、浄光明寺の末寺で浄土宗(浄光明寺は真言宗なので私は真言宗だと思っています。浄土宗なら本尊は阿弥陀如来なはず。)と伝わっています。

今でも伊勢原の史跡に指定されています。

伊勢原市の案内板

太田道灌の活躍した頃、心敬というお坊さんが住んでいて道灌公と故意にしていて、この地で亡くなりました。

連歌師でたいそう有名だったようです。

そして、能満寺の末寺、高岳院が中興される布施弾正(後北条48衆の1人)の伯母様が来た頃、太田道灌の孫娘の旦那、三浦同寸が岡崎城(伊勢原市史跡)から藤沢、油壺の新井城へと後北条に追いやられるのと同時に衰退していくわけですね。

(蛇足ですが、太田道灌の教育は建長寺で行われました。心敬さんと歌のやりとりができるのも、建長寺で幼少の頃から読み書きに励んだおかげなのですね。)

寺の形は寂れて釈迦堂と呼ばれていた、浄業寺が再建されるのは、江戸時代5代将軍の頃です。

1681年のことで、江戸から黄檗宗(この頃は臨済宗としてた)の隠元禅師の直弟子の独本性源禅師が江戸での旗本などの帰依で浄業寺を再建するのです。

能満寺は、と言うと1670年頃に中興開山の渕心玄龍禅師が鎌倉明月院よりやって来ます。

1キロしか離れて無いのですから、交流はあったと思われますね。この頃は同じ臨済宗ですし。

というのも、臨済宗は、隠元禅師の来訪でガラッと変わりました。

木魚を使うようになったし、坐禅中向かい合って坐るようになりました。それまでは、曹洞宗と同じ面壁でした。

妙心寺の僧侶の中には、隠元禅師のために寺を建てる手伝いをする者も多かったようです。

独本性源禅師も初めは、京都の竜安寺で修行されたようです。石庭で有名ですよね。

そんな浄業寺も明治41年に土砂崩れで本堂が倒壊。本尊様は昭和4年に小田原入生田の紹太寺さんに遷されました。

その史跡、浄業寺を紹太寺様とお参りに。

独本性源禅師のお墓などは、綺麗に残っていますが、周りは竹がビッシリと生えてしまっています。

少しずつなんとかしていきましょう。

開山塔
江戸の旗本のお墓

髪の塔、歯の塔などがあるので、菩提寺ではなく浄業寺に特別に帰依したものだと思われます。せめて髪だけでも、という思いが伝わって来ますね。大山詣りの基地となっていたとも予想されます。

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