死ってどんな感じ2

2017年 12月 18日

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思えば、お釈迦様から始まって、歴代の祖師はこの「死」とか「生き死に」の問題を究明するするために修行してきたと言っても過言ではないと思います。

昨日も、お話ししたんですが、正月に自分が今年死んだ時の為に遺偈を作る習慣が臨済宗の和尚さんにはあります。

悲壮感漂うことなく、死というものを話題にすることに、お集まりの皆さんもギョッとしたことと思います。

それくらい、特別なことではないというのが、死を扱う時の基本にあります。

大慧禅師発願文という、修行道場では毎朝お唱えするお経をプリントしてお配りいたしました。

唯願わくは、某甲道心堅固にして、長遠不退、四体軽安、身心勇猛、衆病悉く除き、昏散速やかに消し、無難無災、無魔無障、邪路に向かわず、直に正道に入って、煩悩消滅し、智慧増長し、頓に大事を悟って、仏の慧命を続ぎ、諸の衆生を度して、仏祖の恩を報ぜんことを。
 次に冀わくは、某甲、臨命終の時、小病小悩、七日以前に、預め死の至らんことを知って、安住正念、末後自在に此の身を捨て了って、速やかに仏土に生じ、面り諸仏に見え、正覚の記を受け、法界に分身して、遍く衆生を度せんことを。
十方三世一切諸仏諸尊菩薩摩訶薩摩訶般若波羅蜜

修行中に毎朝お唱えしていて、なんか虫のいい話だなと思っていました。
死ぬ前に自分の死ぬことを知って、何の迷いもなく好みを捨て去ることなんてできるのだろうか?

しかし、それができたら素晴らしいだろう、とも思いました。

最近は、十分に生き切ったら、この発願文のように次の人に委ねて死にゆくのが良いと自分も思うようになりました。

それには、毎日大切に生きて、やるべきことをやらねばなりません。

ボーとはしてられませんね。

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